2018/12/31

書斎の肥やし「概論日本のベンチャーキャピタル」「ベンチャーキャピタルの実態と戦略」を読む



先日、書斎の整理中に、こんな本を発見した。
5年ほど前に買った本だが、10年以上前に書かれた本である。
この2冊は、ベンチャーキャピタル(VC)についての解説書である。

世の中、日々進歩があるようで、実はない。
モノは進化しても人間は進歩などしないからだ。
アカデミックの世界では、新しい本よりも古い本が本質を突いており、いまだに参考とされることが多いのも、そういうことなんだと思う。

私は、おやつを食べながら熟読した。
肉まんを食べながら、「ベンチャーキャピタルの実態と戦略」の方をまず読んでみると、次のような指摘があり、なるほど、と思った。

~前略~「若い中小企業のための今日のシステムに問題があることは間違いない」と彼は語った。クラシックベンチャーキャピタルが経済全体にとって生みの母であり、通商委員会の調査によると、第二次世界大戦後に行われた画期的な全イノベーションの95%は、大企業ではなく、むしろ設立間もない中小企業が起こしたものであった。新規参入なくしては、いかなる経済も長期的下降を避けられない運命にある。1945年以降、旧ソ連と東ドイツが陥った第三世界の国々と変わらぬ経済衰退は、両国が成長企業の保護、育成努力を怠ったことがその要因の一つであることは疑う余地もない。
(「ベンチャーキャピタルの実態と戦略」P70~71)

今日において、多くのベンチャーキャピタル(VC)は、投資先のベンチャー企業(VB)に対して経営支援も同時に行っている。
もちろん、運用成績を高めるため、投資先の成長と上場確率をより高めるためである。
上場企業や社歴の長い中小企業とは異なり、VBの経営基盤は脆弱である。
そのため、お金だけを出してぼーっと眺めている、という上場株式のバイアンドホールドのような投資戦略はまずい、ということだと思う。

中には経営支援をしないVCもあるようだが、一般論として、VCはVBに積極的な経営支援をする必要があるといえよう。
VCにとって、まずは投資案件の選別が重要であることは言うまでもないが、経営支援もまた重要のはず、である。
通常、VBに取締役を送り込んで、いろいろ経営支援をするとあるが、それは内情をよく知るVC(たいていは「リードインベスター」)が行うとのことだ。

私は、肉まんを食べ終え、今度はあんまんを食べながら読み進めた。

~前略~それ以外のVCは、オブザベーションライト(投資契約に盛り込まれる経営を監視する権利)に基づき「監視の必要性あり」と判断された場合に限り支援を行うのが通例である。つまり、リードインベスター以外のVCは、さしたる経営支援を行っていないのである。投資案件の規模にもよるが、リードインベスターには力のあるVCが就くのが習慣化しており、弱小VCとの間で役割分担が明確になっている。
(「概論日本のベンチャーキャピタル」P260)

具体的な経営支援の内容となると、「販路開拓支援」「技術などの提携先の紹介」「人材紹介」「金融機関の紹介」が中心であり、ハンズオンを象徴するような「役員の派遣」や「財務、経理支援」などは相対的に比率が低くなっている。
(「概論日本のベンチャーキャピタル」P84~85)

~前略~このとき必要とされる能力は、投資先VBを経営者と一緒になって経営していく起業家的な資質である。すなわち、VCは投資家から集めた資金の運用を行うファンドマネージャーとしての機能と、VBの支援者もしくは支援にとどまらず、VB経営者と共に歩む起業家的な機能を併せ持っている。この二つの機能をビジネスの枠組みの中で実現したのがVCのビジネスモデルなのである。
(「概論日本のベンチャーキャピタル」P30)

しかし、日本の場合、VCがサラリーマン化している、というモンダイが、本書で繰り返し指摘されていた。
例えば金融機関系のVCであれば、そこのベンチャーキャピタリストは親会社からの出向だったりするそうだ。
以下、現実的な問題としてこんな指摘があった。

~前略~取締役となったベンチャーキャピタリストの 60~70%は、業界のことを何も理解せず、企業経営の経験すら持たず、機能していないとさえ思われる。ベンチャーキャピタルが現在価値曲線や財務理論に詳しいMITのMBA取得者を経験のために取締役としてやたら送り込んでくるため、取締役会では貴重な時間の半分が自社製品の説明で費やされてしまう。誰もこのような事態を望んではいない。
(「ベンチャーキャピタルの実態と戦略」P179)

~前略~大手のリードインベスターが、MBA取り立ての若者を役員に送り込んできたのである。その人物は、MBA 取得前にヘルスケア業界でのキャリアを持っており、いかにも最適の人事に思えた。しかし、彼にとってこれが初めてのベンチャー企業担当だっただけでなく、初めての役員経験でもあったため、何も分かっていなかった。彼が重役の役割を学ぶために授業料が払われたのだと言う者もいた。
(「ベンチャーキャピタルの実態と戦略」P180)

~前略~一般にベンチャーキャピタルは、経営の経験が全くないのだ。月に1回か2回投資先企業で40%の時間しか働いていない。これではスタートアップ企業特有の仕事とその複雑さを理解するのに足りるわけがない~中略~インタビューを受けたCEO達も、経営経験のある取締役の方が、財務知識だけで経営経験のないベンチャーキャピタル出身の取締役よりも価値があると断言した。
(「ベンチャーキャピタルの実態と戦略」P183)

~中略~経営支援の必要性は認識していても、具体的な行動にまで至らない VCがある中で、経営支援を行えない理由を聞いた調査結果を見ると、「経営支援を行える人材がいないから」が約8割を占め、他の要因に比べ突出している。
(「概論日本のベンチャーキャピタル」P87)

というわけで、VCは思い切って、経営支援の外部委託をしてみるとよいのではないだろうか、とも思うのだが、知り合いに聞いたら、実際は自分のところでやりたいそうである。
まあ、金を出せば口も出したくなるのは自然なことだが。

以上、書斎の肥やし「概論日本のベンチャーキャピタル」「ベンチャーキャピタルの実態と戦略」を読んで思ったことを書いた。

2018/12/30

山形ひとり旅

ひとり旅の魅力は、ほとんど予定を立てなくてよいことである。
誰かと行く旅は事前に行き先を話し合い、ガイドブックの範疇で無難な予定を組む、期待外れもない代わりにサプライズもほとんどない。
年の瀬に山形県にひとり旅をした。
山形の観光名所というと、スキーの蔵王温泉、米沢牛の米沢市が有名だが、私は県庁のある山形市に行った。
山形新幹線で上野から山形まで行き、そこから単線のローカル線に乗り換える。
旅の最初に斎藤茂吉記念館を訪問するためである。
茂吉記念館前駅に着くと、目の前に新築の立派な建物が見える。
森の道を歩いてすぐなのだが、駅の改札はなく、駅から直接、森に入った。
記念館の前庭には、禿げ頭で愛嬌のある斎藤茂吉の像があり、その脇の玄関から中に入った。


茂吉記念館前駅


斎藤茂吉記念館


館内は広く、人の気配がなかった。
なあんだ、駅名になっているわりに、スカスカじゃないか、と思った。
受付の女性職員に600円を支払い、展示室を見て歩いた。
途中、数人の客とすれ違った。
駅名にもなっているので期待したが、正直、やや平凡な展示だった。
1日数本しかない電車に乗り、わざわざ見に行くほどのものではない。
私は1時間たらずで展示を見終え、行き場を失った。
さて困ったな、帰りの電車は2時間後で、記念館の外は何にもない。
2階の大窓から外を見下ろして考えた。
一体何をして時間を潰そうか。
眼下の駐車場に、さっきの客の姿が見える。
ふつうは電車ではなく、ああやって車(多分レンタカー)で来て、サッと帰るのだろう。
その方が賢いな、と思ったが、今さらもう遅い。
私は退屈しのぎに受付へ行き、受付の女性職員と雑談することにした。
ただ、彼女はチケット係なので、私の美術談議が通じず、そこで私は2時間後に電車が来るまで学芸員の方と少し話せないか、と頼んでみた。
すると親切に対応してくれて、ラウンジで待つように言われた。

ソファーで10分ほどくつろいでいると、向こうからアイドルのような風貌の素敵な女の子が現れた。
彼女は私の向かいに座り、学芸員の名刺をくれた。
Gさんというのだが、彼女は斎藤茂吉記念館の唯一の学芸員という。
メガネをかけ、物静かな話し方で、ほとんど誰もいないこの記念館にいるのがもったいないような気もしたが、話がはずんで出身地を聞くと、東京の出身で都内からの移住だという。
思わず私は、どうしてこんな田舎町に就職したのですか?と失礼なことを聞いてしまった。
するとGさんは笑って、学生時代から斎藤茂吉の熱烈なファンだというのである。
学芸員の資格を取り、大学卒業後は茂吉の故郷に移り住み、記念館に就職した、、、物静かなのにずいぶん思い切ったことをするなあ、と私は感心して聞いていたが、結局30分ほど話し、最後まで美術談議にはならなかった。

それにしても、彼女の話は非常に勉強になった。
これまで深く考えたことはなかったが、最近の文学少女だって、芥川龍之介や斎藤茂吉などの熱烈なファンがたくさんいるのだ。
あの小難しい文章と、白黒の写真でも、想像力豊かな女子は萌えるようだ。
私は、なるほどね~、と思った。
つまり、文学少女は、一見おとなしそうだが、思い切ったことをするということ。

彼女と別れた後、私はまたひとりで館内の展示を見て回った。
2階の景色の良いラウンジで、電車の時間になるまで待った。
ようやく電車が到着し、記念館駅から山形駅へ、今日はかなりの時間をロスしたので、そのまま市内のホテルにチェックインをした。




翌日は山形市内を散歩し、旧山形県庁などを見たが、旧山形県庁は明治時代の由緒ある建物で、非常に見ごたえがあった。
入場無料だったが、斎藤茂吉記念館が600円の入場料を取っているのだから、ここも数百円の有料とすべきだ、と思った。
お役所仕事とはいえ、100円でも200円でもいいから客からお金を取るのは大事なことだ。
見た人が経費を払うのが、最も公平な負担のあり方だからだ。




旧山形県庁


旧山形県庁貴賓室


その後、私はおみやげを買い、山形駅に向かって歩いた。
山形の街並みもそうだが、県庁所在地は道筋が分かりやすい。
恐らく、たいていの県庁所在地はかつての城下町だからである。
方向音痴の私でも迷うことなく、山形駅のそばまで行けた。
が、その途中、私は一軒のくたびれた感じの百貨店を見つけたのだった。
聞かない名前の地方の百貨店で、建物もかなり古びており、大通りの交差点で向こう側を見ていたら、シャネルとディオールのブティックが見えたから百貨店だと分かった。

そこから私は山形駅まで5分ほど歩いた。
JR東日本の山形駅、その駅の構えは大きくて立派でゴージャスである。
ここには、ホテルメトロポリタンとアトレが入っている。
エスカレーターを上がって行くと、さびれた市街地から景色が一変し、まるで都内のターミナル駅にいるかのようだ。
私はとりあえずメトロポリタンに入った。
ホテルの喫茶店に行き、電車の時間までくつろぐことにした。


ホテルメトロポリタンのカフェ


頼んだケーキセットを食べながら私は思った。
さすが、メトロポリタン、これはおいしい。
市内のさびれたカフェの、同じ値段のケーキセットよりもおいしいだろう。
それに、さっきのさびれた百貨店だが、大丈夫なのだろうか。
天下のJRのメトロポリタンとアトレにはかなわない。
あの百貨店の客はアトレとメトロポリタンに奪われていくのだ。
あのシャネルとディオールもいずれ、アトレの一角に転居するか、あるいは山形から撤退するかのいずれかになるのではないだろうか。

2018/12/25

The Story of Blue Rose(1)「夢をあきらめないで」「上をむいて歩こう」

サントリーホール


こないだ駅前で、ユニセフの青い服を着た若い男性が、高齢者を呼び止めサブスクリプションの寄附をすすめているのを見かけた。
最近よく見かける光景なのだが、うちのママ殿と一緒に、ユニセフのチャリティーコンサートを聞きにいったばかりだなあ、、、

そのコンサートは2018年10月、サントリーホールのブルーローズ(小ホール)で行われた。
三ツ星ベルトという中堅メーカー主催のもので、会社で集めた寄附金を日本ユニセフ協会に贈呈するにあたっての記念コンサートである。


サントリーホール


「今日はどんな曲が聞けるのかしら♪♪」
「今日はサンサーンスとメンデルスゾーンですね。それから流行歌のメドレーもありますが、私は流行歌をよく知りません。」
「会社のイベントだから難しい曲はないと思うわよ。ところで、なんていう会社のコンサート??」
「主催は三ツ星ベルトです。確か東京証券取引所に上場していて、ええと、銘柄の番号は5192です。」
「三ツ星ベルト、、、三ツ星レストランなら素敵なのですけどね。」
「ママ殿、小声でお願いします!!(;´・ω・)」
「あなた、次は、三ツ星レストランに連れてってほしいわね~。」
「はいはい、承知しました、、、」

流行歌のメドレー、アグネスチャンの登場、美人声楽家たちの合唱などもあり、無料コンサートなので内容は平凡だが楽しいひと時であった。








アンコール曲の「夢をあきらめないで」「上を向いて歩こう」。
なかなかいい曲だなあ、と思った。
実は、私はクラシック好きで流行歌には疎い。
なので、聞きながらママ殿にいろいろ聞いたのだが、ママ殿もジャズ好きで流行歌をよく知らないのだった。
2人で、夢をあきらめないでは誰の歌か~と小声で話した。

あとで調べると、この歌は、岡村孝子さんという女性歌手の歌であった。
岡村孝子、、、
岡村というと、お笑い芸人の岡村隆史しか、知らないのだが。
でも、次の「上を向いて歩こう」、これはさすがに私も知っていた。




コンサートの後、私たちは日本橋高島屋へ。
ここの天一の天ぷら定食は久しぶりだった。

「ところで、さっきの上を向いて歩こうですが、これは海外ではスキヤキというタイトルなんですよ。」
「へえ、そうなの。」
「これって、水前寺清子の歌ですよね!?」
「す、水前寺清子?? 違います。上を向いて歩こうは、坂本九です。」
「ええっ、そうでしたっけ??」
「そうです。坂本九は欽ちゃんの相方で、日航機の墜落事故で死んじゃった人よ。あなたが子供の頃に。」
「ああ、それでか、、、」

日航機墜落事故は1985年8月12日のことである。
その後はテレビなどで水前寺清子が歌っていた記憶があって、私はてっきり、水前寺清子の持ち歌だと思っていたのだ。

今年もあと少しとなりました!!
ぼちぼち頑張りましょう(*'ω'*)~~

2018/12/24

I Love ”La Dolce Vita”?

ビリーワイルダーはロマンティックコメディーの巨匠である。
オードリーヘップバーンの「サブリナ」、シャーリーマクレーンの「アパートの鍵貸します」、マリリンモンローの「お熱いのがお好き」などの名画を監督した。
しかし、異色の作品として、「サンセット大通り」という人間の本質を描いたシリアス映画も撮っている。
「サンセット大通り」は、豪邸の老いた大女優の孤独を描いた名作である。
テーマは女性の外見という普遍的な話だが、現代的に引き直して言うと、美容整形が今ほど進歩していなかった時代の芸能人の苦悩のようなものが描かれている。

このように、ワイルダーはシリアスな映画を作る才能もあったが、ワイルダーがコメディー映画の巨匠となれたのは、この才能のおかげだと思う。
素晴らしいコメディーには、「サンセット大通り」のようなシリアス映画の持つ毒の要素、人情の要素が含まれているものだ。
このあたりのニュアンスは、日本でいえば落語に近い。
ワイルダーのコメディー映画は、どことなく落語と似ており、毒と人情味がある。
ワイルダーの師匠は、同じユダヤ人の映画監督エルンストルヴィッチである。
巨匠ワイルダーの師匠ということで、以前気になってその作品を見たことがあるが、こちらも人情コメディーであった(「桃色の店」などがある)。

さて、ワイルダーの映画が生粋の娯楽作品だとすると、その対極にあるのは芸術的映画である。
私の書斎の本棚に、芸術的映画の巨匠フェデリコフェリーニに関する本が数冊ある。
「フェリーニ、私が映画だ」「フェリーニ、映画を語る」。


フェリーニ映画を語る


フェリーニ私は映画だ


昔、フェリーニの名画はツタヤのレンタルビデオでひととおり見たことがある(つまり、かなり昔のことだ!!)。
「8と2分の1」などの芸術性と、掴みどころのなさに、見た後考え込んでしまったが、部分的にはよく分かり、見どころがあちこちにあって、そのセリフとカットが「フェリーニこそが映画の中の映画だ」というほど良かった。
しかし、分かった気になって繋いで見ると全体像がよく分からなかった。
私には、フェリーニは難解、ということになった。

ただ、フェリーニの代表作は「道(La Strada)」と「甘い生活(La Dolce Vita)」だと私自身は思っている。
前者は人間の本質を描いたシリアスすぎる作品で、気難しい旅芸人の男と連れ合いの女(ジュリエッタマシーナ)の悲劇である。






「道」は誰でも分かるコテコテの感動的名画で、傑作であり、どう考えても後期フェリーニの芸術的な作品よりもデキが良い。
もしかするとフェリーニは、初期に「道」を作ってしまったので、自分の道を見失ったのかもしれない、とも思えるほどだ。
芸術家であるならば、勝ちパターンを繰り返して作品を作り続けるべきではないので「道」を作った後のフェリーニは、新しい方向へ突き進んでいかざるを得なかったのかもしれない。

これに対し、「甘い生活」はマルチェロマストロヤンニの主演で、享楽主義的な映画である。
私は、ズバリ、「道」が人生の真実を描いた名画だ!!と思いつつも、ハッキリ言うとこれは苛酷なドラマで、義務と責任の重たすぎる話で、好きになれない。
1度ならいいが2度は見たくない映画である。

つまり、お気楽者の私には、この手のイタリア映画は合わないということなのだが、、、そういえば、ルキノヴィスコンティーも最初の頃はフェリーニの「道」のような重い映画を作っていなかったか。


  


私は、「甘い生活」のほうが圧倒的に好きだ。
こちらは何度か繰り返し見たが、何がいいかというと、フェリーニの美意識と、登場人物が好き勝手に生きている、ということである。
私は、美意識をもって、好き勝手に生きる、それが「道」とは別の、もう1つの人生の真実の道だと思う。
まあ、そのように生きるのは、現実にはなかなか難しいわけであるが。

I Love ”La Dolce Vita”(*'ω'*)

2018/12/23

まんじゅうこわい

クリスマス前に、借りた数冊の本を返却するため、慶應の三田図書館に行ってきた。
この時は本を借りた後、図書館近くの南館の「ファカルティークラブ」でランチを食べた。
昔懐かしの学食「山食」でもよかったが、生協の方までぐるっと歩くのはめんどうくさかった。
「ファカルティークラブ」は教職員塾員用のレストランである。
学生時代、ゼミの教授に何度かごちそうになった記憶があり、何やら特別な雰囲気で貴族的なレストランという記憶があった。


慶應三田図書館


図書館を出て、狭い道を少し歩くと南館にすぐ着くのだが、ファカルティーの手前にホールがあり、大扉が開放されていた。
受付と書かれた長机があり、女の子が忙しそうに準備をしている。
ただ、案内が出ておらず、私は彼女に何のイベントをするのか聞いた。

「ステージにピアノがあるけど、ピアノクラブのコンサートかなにかですか?」
「ええと、午後から慶應文連の発表会なんです。ピアノの演奏もありますよ。ぜひ見て行ってください。」
「無料ですよね?」
「はい。」
「じゃあ、食べたらまた来ます。」
「お待ちしています。」






ファカルティーでお昼を食べ、コーヒーを飲んでくつろいだ後、早速さっきのホールへ。
しかし意外にも、ホールの席はたくさんあるのに、わずか5~6人の高齢の男性が離れて座っているだけだった。
慶應文化部のOBたちかな。
閑散としており、大学生が1人も見に来ていないのはきっと土曜日だからかな。
それにしても、観客がこれでは発表する学生も張り合いがないのでは。
しかしその後、女子大生が数人、後ろの方に座ったので、少し雰囲気が花やいだ。
初めてだから分からないが、まあ、地味な文化部のイベントだからこんなものなのかなあ。


講堂


舞台は3時間にも及んだ。
ピアノクラブの演奏会、落語研究会の寄席、アメリカンポップスのグループのバンド演奏など、その中でも落語研究会の寄席がおもしろかった。
落研の部長で第14代目乱痴(らんち)さんが、「まんじゅうこわい」を披露した。
まんじゅうこわいは、私が生まれて初めてナマで聞いたネタなので、ああ、これか、とすぐに思い出した。
このネタは、今日の観客、つまり年配者向けではないと思うのだが、バカバカしい系のネタであり、大学生のような若い落語家には合っていた。

全ての出し物が終わったのは夕方4時過ぎであった。
終了後、ファカルティークラブを貸し切り、懇親会をするという。
予約なしでも慶應の人なら飛び入り参加OKと言われた。
私も5000円払って懇親会に参加し、解散まで食べ放題をつまんで初対面の人たちと話しこんだ。
この時に知ったのだが、客席にいた数人の高齢者は、みなさんかなりの大物であった。
なるほど、これならたった数人の観客でも豪華メンバーである。
また、懇親会をとりまとめていたカタブツそうな4年生に、どこに就職するのかを聞いみてた。
すると出版社に内定しているという。
講談社、集英社あたりかと聞いたら、ベンチャー企業ですとの答え。
へえ、斜陽の出版業界にベンチャー企業なんてあるんだな、と思ったが、他の学生の就職先も聞いて思った。
何だか自分たちの時代とはずいぶん変わったなあ。


ファカルティークラブ


ファカルティークラブ


懇親会が終わり、キャンパスを出る頃には午後8時を過ぎていた。
私は正門から国道1号線を歩き、三田3丁目の横断歩道を渡り、銀行のわき道の商店街に入り、飲み屋の並ぶ狭い通りをぶらぶら歩いた。
途中、食べたことのある店を何軒か見つけた。
いまだに店が残っているとはね。
まあ、20年前のことだから、残っている方がふつうかしら。
歩道橋を上がり、田町駅へ。
私は学生時代と同じように、京浜東北線に乗り込んだが、つり革につかまって何ともいえない懐かしさを感じた。
電車の窓ガラスに映る自分はすっかり年を取っている。
しかし、気持ちの方はそうでもない。

この世の中に怖いものなどあるものか。
本当に?
いや、本当はある、、、
本当は何が怖いの?
ま、まんじゅう、、、

怖いのは年を取ることではなく、気持ちが年老いることだと思う。

2018/12/20

ためになる話は若者から聞け

半年ほど前、筑波大の近くの掘っ立て小屋のようなラーメン屋で、非常においしいラーメンを食べた。
掘っ立て小屋のラーメン屋の場合、店主は頑固おやじがお約束で、割引券を出して注文したら、やはり、いやな顔をされた。
こちらもいやな顔をされないよう、ラーメンだけではなく手羽先も頼んだというのに。
しかし、これだけおいしいラーメンなら、まあ、いいか、と思った。


ごう家ラーメン


ごう家の手羽先


ラーメン屋を出た後、私はつくば市役所で用事を済ませ、大通りの雑居ビルに入った。
午後からエストニアの起業家のセミナーがあり、ついでに聞こうと思い、予約していた。
狭い教室は、筑波大の学生と思われる若い男女ばかり、30人ほどが床に座って騒がしかった。
椅子もテーブルもなく、床に座って話を聞くなんて、小学生じゃあるまいし、と思ったが、窓際にカウンターがあるので、そこで立って聞くことにした。


エストニアセミナー


セミナーの講師は、実際にエストニアに自分の会社を設立し、ノマドとして活動する若い日本人男性であった。
90日の観光ビザで海外を旅しながら仕事をし、パソコン1台でインターネットビジネスをしているという。
楽しそうな話だが、エストニアはタックスヘイブン(税金天国)などではない。
エストニアの法人税は30%以上と高く設定されており、彼がエストニアに会社を持つメリットが私にはよく分からなかった。
彼が強調していたのは、会社設立のお手軽さであった。
ネットで申し込んで30分ほどで手続が完了し、エストニアに会社を持てる、あなたも社長になれるという。
まるで消費者金融の無人契約機で借金をする話のようではないか。
しかし、そこが若者から見ると魅力なのだろう。


エストニアセミナー


筑波大学


さて、このエストニアセミナーで、私は筑波大の学生のDさんと知り合った。
Dさんは理系のエンジニアで、一流のキャリアの持ち主だが、大企業には就職せず、ベンチャー企業への就職が内定していた。
入社後もたまに連絡を取り合い、一緒に飲んだりもするが、近々、また一緒に飲む予定だ。
エストニアセミナーの起業家の話も、Dさんの話も、若者の話はワクワクしておもしろい。
それは、社会や他人を批判したり、愚痴るようなことがないからだと思う。
あきらめといった言葉とも無縁で、常に前向きである。
時には、若者にしかできない新しい考え方が提示されることもある。
私の話も真剣に聞いてくれる。

しかし、年長者と一緒に飲むと、なかなかそうもいかない。
お酒を飲みながら、最初は年長者の「ありがたい話」を聞かせていただき、そのうち、仕事や家庭や社会に対する愚痴が出たり、酔っ払ってとりとめのない話になることもある。
ただ、ワインをおごってもらえるのは後者である。
若者と飲む時は、私がおごらなくてはならない。
ああ、それは納得。
ためになる話は若者から聞け、きっと、そういうことなのだろう。

2018/12/19

全員がルイサダさんと結婚したかった

今年のピアノコンサートについて記録しておこう。

・マリアジョアンピリス(Maria João Pires)
・マルクアンドレアムラン(Marc-André Hamelin)
・ジャンマルクルイサダ(Jean-Marc Luisada)
・シプリアンカツアリス(Cyprien Katsaris)
・ファジルサイ(Fazıl Say)

有名な外国人ピアニストばかりであるが、ピリスの引退記念コンサートがサントリーホール、カツアリスがみなとみらいホール、それ以外の3人は銀座ヤマハホール。
特に銀座ヤマハホールの場合、全て最前列の席であった。

銀座ヤマハホールは、銀座シックスの先の銀座ヤマハビルの7階にある。
銀座の一等地という場所柄、このビルは鉛筆のように細い、いわゆる「ペンシルビル」の形状で、コンサートホールもかなり小さい。
座席数、わずか333席(!!)。
サントリーホール、横浜みなとみらいホールだと広すぎるが、ここは誰が弾いても大丈夫、ピアノの場合は狭い方がよいので、かなりよくできたコンサートホールである。


銀座ヤマハホール


銀座ヤマハホールのホワイエのアップルタイザー


さて、9月のジャンマルクルイサダのコンサート。
ルイサダはショパンコンクールでブレイクしたフランスのピアニストである。
典型的なショパン弾きだが、彼のショパンを生で聞いた私の素直な感想は、手慣れていてソツがない、上手だが物足りない演奏。
最も印象に残ったのは、アンコール曲がエルガーの「愛の挨拶(op12)」で、その時のルイサダの弾きっぷりが疲れていたことと、譜めくりの女性がみずみずしい美人で、クリスチャンルブタンのハイヒールを履いていたことだ。


銀座ヤマハホールのジャンマルクルイサダ


コンサート終了後は、いつものようにCD購入者のためのサイン会が始まった。
ヤマハのビルはとにかく狭いので、どこかに人が集まるとすぐ人ごみの中で動けなくなってしまう。
ロビーでサイン会をするときは、階段までサイン待ちの客が列をなすのだが、私はトイレから戻り、列の一番うしろに並んだ。
すると、私の前の女性グループがおもしろい話を始めた。
どうも、彼女たちは昔からのルイサダファンのようであった。


銀座ヤマハホールのジャンマルクルイサダ


「ああ、ルイサダさんも、やはり、じいさんになってたわ。」
「そうね、私たちが学生のころにデビューしたのだから仕方がない。」
「あの頃のルイサダは、かっこよかったなあ。」
「私たち全員が、ルイサダさんと結婚したかったものね。」
「そうそう。でも、私たちもルイサダも、すっかり変わってしまったんだねえ。」
「次はいつ来るのかしら。」

彼女たちは音大の同期のようであった。
その後もしばらく、懐かしい思い出話が弾んだが、そのうち私の番となり、私はルイサダのサインをもらった。
握手もした。
が、じいさんと握手したってどうってことはない。
それにしても、目の前のこのじいさんが、彼女たち全員の憧れの存在だったとは。
しかし、あの譜めくりの女性が、いまのルイサダに一目惚れすることはないだろう。

私はエレベーターで1階におり、ヤマハホールを出た。
歩いて銀座駅に向かう途中、大通りのブティックは閉店後で真っ暗だった。
若い頃のルイサダは、もう少し、マシな演奏をしていたのではないだろうか。
それにしても彼女たち全員が、ルイサダさんと結婚したかったという言葉が、妙に印象に残った。


ジャンマルクルイサダ

2018/12/18

リトルジャパン、リトルガール

東京浅草橋のリトルジャパンの銭湯


「リトルジャパン」は浅草橋駅近くの路地にある外国人観光客向けの簡易宿泊施設兼カフェバーである。
ずいぶん前、私はFacebookの記事を見て1階のカフェバーにライブを聞きに行ったことがある。
2階が宿泊所、1階がカフェバー、ラウンジ、銭湯。
農水省のキャリア官僚の方が、役所を辞めて開設した施設である。
起業家の賞をいくつか受賞しており、窓際に楯やトロフィーが飾られている。
今夜は不在だが、壁かけ写真のなかにその人の姿があった。
下町の気さくなおじさん、という感じがした。


東京浅草橋のリトルジャパン


東京浅草橋のリトルジャパンの銭湯


東京浅草橋のリトルジャパンの銭湯


リトルジャパンのカフェバーでは、不定期で様々なイベントが行われる。
今夜は、30才前後の女性シンガーCさんの弾き語りのライブである。
Cさんはカウンター席の高い椅子に腰かけ、クラシックギターをさげて沖縄の素朴な島唄のようなもの(??)を歌った。
私は静かに特製カレーライスを食べながら聞き入った。
ただ、好みの問題ではあるが、歌詞が何となく地味で私には物足りなかった。
テーブルの反対側に、Cさんの友達で小柄な女性(Wさん)が座っていて、私は彼女と話した。
Wさんは最近OLを辞め、薬膳料理の先生とヨガの先生のWワークをしているという。




Cさんの弾き語りが終わった。
すると、Wさんが立ち上がり、休憩時間はヨガでリフレッシュしましょう、などと言い出した。
こっちは食べたばかりなのに、全員でヨガをする展開となって、背中を反らせたりしながら、こんな狭い場所で、と私は思った。
その後は居合わせた何人かと連絡先を交換して解散となったが、私はWさんとFacebookのメッセンジャーで話すようになった。
薬膳料理の店は日本橋にあるという。
それなら何かの用事のついでに食べに行くと約束した。


日本橋の薬膳料理レストラン


その日は雨で、買い物帰りに立ち寄ったが、Wさんの店は日本橋駅から徒歩で約10分の路地にあった。
料理屋の店構えではなく、イベントスペースの建物の一部を借りていた。
イベントがない日には、オーナーから飲食スペースを安く借り受けることができるため、不定期で営業し、薬膳料理を提供しているとのことだった。
イベントスペースなので中は広々としており、雨のせいで冷え込んでいた。
ランチタイムが終わり、私の入店後しばらくすると、最後の男性客が出ていった。
遠くの厨房にWさん、テーブル席に私、距離は遠いがいきなり二人きりとなった。
私は日本橋のガイドブックとチラシを読み、注文した料理を待った。


日本橋の薬膳料理


10分ほどたち、彼女が薬膳料理のランチセットを運んできた。
800円ほどのランチセットは、どんぶりに野菜の味噌汁がついており、シンプルな家庭料理の味で、なかなかおいしかった。
私はテーブル席で彼女と話しながら食べた。

「薬膳料理は、ヘルシーでおいしいなあ。」
「ありがとうございます。」
「また食べに来てもいいですか。」
「あの~、ごめんなさい、、、」
「えっ、どうして??」
「実は、今日で閉店なんです。」
「まさか。」
「オーナーがここを売っちゃったんです。いまは高く売れるみたいで。」
「あ~、そうか。東京オリンピック前だから確かに売り時だ。」
「ですよね。更地にして、別の人が新しく何か建てるみたいですよ。」
「それは残念ですね。どこかにまたお店を出したら、ぜひ、私にも連絡してほしいな。」
「はい、必ずご連絡します。」

不思議なめぐりあわせだった。
私はWさんの薬膳料理のお店に初めて行き、最後のお客さんとなったのだった。

以下、追記。
2020年10月、不動産会社の部長FさんとZOOMで話す機会があった。
以前からの知り合いで、ブログにもすでに2度登場している方なのだが、新型コロナウィルスの外出自粛で長い間対面しておらず、最近どうですか、という話から始まった。
国土交通省の空き家対策事業も手がけており、その展望を教えてもらったが、地方創生のためには不動産の利活用は不可欠である。
新型コロナウィルスが収束したらお酒でも飲みましょう、どこかおすすめは??という話になり、私は浅草橋の「リトルジャパン」という店を教えた。
また行ってみたいものだ。

2018/12/14

清澄白河カフェ巡り、日本銀行創業の地へ

半年ほど前、清澄白河でカフェ巡りをした。

アンティークカフェウール倶楽部⇒IkiEspresso⇒ブルーボトルコーヒー

当時の私はスターバックスのコーヒーセミナーを受け、修了証をもらったばかりだった。
コーヒーに対する興味が尽きず、人気のブルーボトルコーヒーが飲みたくて清澄白河まで行った。
おおむね、スターバックスは深煎りで、ブルーボトルは浅煎りだが、私も含め日本人の多くは普段、深煎りを飲んでいる。
なので、ブルーボトルは初めて飲むとややピンと来ないと思うのだが、理屈としてはブルーボトルのほうが本来のコーヒー豆の味のはずである。


アンティークカフェウール倶楽部


アンティークカフェウール倶楽部


アンティークカフェウール倶楽部


アンティークカフェウール倶楽部



両国駅をおり、まず駅近くのアンティークカフェウール倶楽部に入った。
この店はアンティーク家具が配置された上品なカフェで、ブレンドコーヒーもザッハトルテもおいしかった。
そこから隅田川の方へ歩いた。


松尾芭蕉記念館


川沿いを下ると松尾芭蕉記念館がある。
小さな資料館で、入場料200円を払って短時間で見終わるが、南の萬年橋の手前にも芭蕉庵という別の見どころがある。
今度は隅田川の歩道を萬年橋に向かって南下した。
芭蕉庵は小高い丘にある見晴らし台で、こちらは無料である。




萬年橋は渡らず、その手前を左折。
すると工場と住宅の街並みとなる。
路地を少し歩き、エスプレッソ専門のカフェに到着。
ここで2杯目のコーヒーを飲んで休んだ。


エスプレッソ


その後、来た道を戻り、萬年橋を渡ると清澄公園があり、公園内を東へ抜けると清澄庭園の門がある。
墨書きの札の門前で写真を撮ろうとしたら、門から出てきた身なりのよいおばあちゃんに記念撮影を頼まれた。
お互いスマホを交換して何枚か記念写真を撮りあい、その後、少し世間話をした。
気のせいかもしれないが、以前から私は、通りすがりのおばちゃん、おばあちゃんにいきなり声をかけられたり、何かを頼まれたりすることがよくあるのだ。
きっと暇そうにしているから声をかけやすいのだろうが、私のような怪しい男をナンパするなんて、なかなかおもしろい女性がいるものだ。










さて、清澄庭園に入場して、30分ばかりかけてぐるっと散歩をした。
小石川庭園、浜離宮庭園も行ったが、清澄庭園が一番良いと思った。
庭園を出て、清澄白河駅の大通りの方へ歩いた。
工場と住宅の街並みを東へ歩き、ようやくブルーボトルコーヒーを見つけた。
それはカフェに似つかわしくない外観の工場のような建物であった。
店内は天井が高く、広々としており、平日昼間なのにテーブルは満席。
レジで本日のおすすめを頼んだ後、私はコーヒーカップを持ってテーブル席へ、東南アジア人のカップルと相席をした。


ブルーボトルコーヒー清澄白河


このコーヒー、私はブラックで飲んだが、さっぱりしていて非常に飲みやすかった。
おお、これはブラックが苦手の私でも、水のようにがぶがぶ飲める!!
なるほど、人気の理由が分かった。

ただ、店内は日本語以外の言葉が騒々しく飛び交っており、まるで異国の繁華街のカフェにいるかのようだった。
私は飲んだ後、相席では落ち着かないので早めに店を出た。
近くに小津安二郎生誕の地の記念碑があるというので、それを見てからいこう。
しかし、すぐに探せると思ったのだが、GoogleMapの矢印をたよりに10分以上、同じ場所をうろうろしてしまった。


小津安二郎記念碑


おかしいな、見つからない。
どこにあるんだろう。
小津安二郎の記念碑は、歩道橋の脇に隠れるようにしてあったのだが、そのとき私はギャラクシーノートのペンがなくなっていることに気付いたのだった。
本体に差し込むのがめんどうで、たまにペンをテーブルに置いたりすると、うっかり忘れることがある。
相席のテーブルにペンを忘れてしまったみたい、、、

店に電話して調べてもらったが、ペンは見当たらず。
明日の掃除の時に探して、見つかれば連絡すると言われたが、たぶんあきらめた方がいいだろう。
清澄白河というとおしゃれな東京の街をイメージする人が多いと思うが、実際に歩くと工場の居並ぶ雑多なダウンタウンである。
まあ、なくしたものが財布ではなく、ペンで助かったと思うことにしよう。

その後、私は道を間違えて永代橋にたどり着いた。
橋を渡り、隅田川のほとりを箱崎のIBM本社の方へ。
すると、「日本銀行創業の地」と書かれた記念碑に出くわした。
設立当時、日銀はこの周辺にあったのだ。


日本銀行創業の地記念碑


いま、日銀は空前絶後の金融緩和をしている。
ハイパーインフレを引き起こすと批判する経済学者も多いが、実は戦前も日銀は空前絶後の金融緩和をしたことがある。
その時のこともあってか、今回は、日銀自身がハイパーインフレのリスクについて十分に注意しているのではないだろうか。
なぜそう思うのかというと、以前書いたように、三越前の貨幣博物館の展示には、ハイパーインフレの恐ろしさが詳しく解説されているからである。
しかし、「分かっちゃいるけどやめられない」のが金融緩和なのである。
悲観的な経済学者の言うとおり、制御不能となり、最悪の結果つまり財政破綻やハイパーインフレを招く可能性も理論的にはあり得る。
もしそうなったら、その時の私たちはどうなるのだろう、、、
渋沢栄一の新1万円札は紙切れ同然となる。
一杯のブルーボトルコーヒーすら、1万円札で買えなくなるだろう。
私が生きている間に、そんな日が来るのだろうか。
それにしても、隅田川の川面はのどかだなあ。