原材料はリサイクル雑貨のほか、さとうきび、米軍のパラシュートなど。
なにも米軍のパラシュートを使わなくてもいいと思うが、これには彼女の沖縄人としての政治的主張や先祖の事情などがあるのかもしれない。
そういえば去年、浅草寺の二天門のすぐそばの美術館(布文化と浮世絵の美術館)で津軽のボロの展示会を見たのだが、ボロなど見すぼらしくて着たくもないが、展示作品だとなかなかおもしろい。
その後、私は有楽町方面に歩き、出光美術館のある帝劇ビルへ。
出光美術館に行く前に、丸亀製麺でうどんセットを食べた。
私はうどんよりもそばが好きなので、駅のそば屋はよく入るが、こういったうどんチェーン店にはまず入らない。
しかし、他に食べるところがなかったのだ。
店内には、帝劇の舞台を見終えた女性客が何人か来ており、舞台の話で盛り上がっていた。
出光美術館の今回の企画展は、松尾芭蕉の「奥の細道」。
私は8月の内覧会のときすでに1度見たので、30分ほど展示室を歩いてざっと見るだけだった。
松尾芭蕉は現代人も知る超有名な俳人だが、そもそも俳句というのは明治時代正岡子規が作り出した形式であり、芭蕉当時の歌は俳句ではなく発句と言うのが正しいのである。
発句とは連歌の最初の歌のことである。
芭蕉の歌の肉筆は世にたくさんあり、その多くが真偽不明のままである。
筆跡を見分けようとしても、そもそも筆跡が一定ではなかったり、芭蕉は人気作品だったので、当時からかなりの量の偽物が出回っていたのだ。
そのため、国内の美術館は芭蕉の歌の肉筆を所蔵していても、芭蕉の企画展をしたがらない傾向があるといわれる。
そういうわけで、出光美術館も今回まで、芭蕉の歌の肉筆の多くを収蔵庫でお蔵入りとしていたという。
展示室を出て、皇居の見えるラウンジへ、お茶を飲んで休憩。
すると、くつろいでいる私のすぐ前で、おばあちゃんの2人組が皇居を見ながら井伊直弼の話を始めた。
歴史の教科書に出て来る例の桜田門外の変である。
「あれが桜田門だ。」
「そうだね。」
「このあたりはね、当時、あちこちの大名屋敷があってさ、桜田門の前で井伊直弼が暗殺されたとき、大名屋敷の連中はそれを上から眺めていたのさ。」
「そうだっけね。」
いきなり人前で物騒な話である。
おばあちゃんたちの話だと、当時、桜田門周辺は夜でも明るかったらしい。
江戸の大名屋敷の住人は、井伊直弼の暗殺ショーを特等席から観覧していたというのである。
私は後楽園ホールのボクシング会場を想像した。
「いまも井伊家のお墓は、直弼さんのお墓だけいつもお花が供えてあるんだよ。」
「不思議だねえ、いったい誰がお花を供えているんだろう。」
どうも、おばあちゃんがご両親から聞いた話のようであるが、井伊直弼の遺骨(切断された首の遺骨)をめぐってひと悶着があったらしい。
だが、そこはまあ、よそさまの家の話であり、また、生々しいのでここには書かない。