今日はトッパンホールで、ベルリン古楽アカデミーのコンサートを聞いてきた。
トッパンホールは、飯田橋の凸版印刷のビルに併設された素晴らしいコンサートホールである。
ただ、飯田橋駅から首都高の高架下の方へ15分ほど歩かなくてはならず、また、周囲に目ぼしい店がなく、少々不便な場所にある。
そこで時間潰しのため、薄い文庫本を持って行った。
塩野七生の「マキアヴェッリ語録」。
館内はトッパンホールのほかに、カフェと印刷博物館がある。
すでに昼過ぎで、コンビニ弁当を食べた私は、印刷博物館の常設展に入って長い待ち時間を潰すことにした。
ここには何回か来たことがあるが、かなり広いので、じっくり見れば数時間かかるだろう。
私は印刷に詳しくないが、印刷の技術がなかった時代、人々はどうやって記録をとっていたのか、と思うことがある。
まあ、昔は「写本」をしていたのだよね。
そうそう、写本といえば、ショーンコネリー主演の「薔薇の名前」という映画を思い出す。
中世の山奥の寺院が舞台のミステリー映画なのだが、寺院の一角で僧侶たちが日々重要な書物をひたすら写本しているのである。
こういう、まったくお金にならない文化活動は、やはり政府か宗教団体が取り組まなくてはならないのだ。
その寺院の構内は街のようになっており、書き上げた大量の写本を保管するため、寺院の塔内は巨大な図書館のようになっている。
ある時から院内のあちこちで謎めいた連続殺人事件が起こるようになり、事件解決のカギはこの塔の書物に隠されているようだ、というストーリーだと記憶する。
そんなことを思い出しながら印刷博物館の展示を見たが、写本が宗教と深く関わっていたように、印刷も宗教を通じて発展してきたようである。
教団の教義とは絶対的なもの、一字一句完璧に写本しなくてはいけない、布教活動も印刷物の配布でいけるなら、彼らにとってイノベーションそのものだ。
凸版(トッパン)、凹版(オウハン)、平版(へいはん)、孔版(こうはん)、凸版は学校の木版画など、凹版はメゾチントの版画家浜口陽三などが分かりやすい。
平版はよく分からないので、まあ置いといて、孔版とはシルクスクリーンのことだ。
1時間ほど見て疲れたので、私は適当に切り上げてトッパンホールに入った。
ベルリン古楽アカデミーは、バロック音楽を演奏する世界でも有名なグループである。
今日は、ソフィーカルトホイザー(Sophie Karthauser)というドイツ人の女性ソプラノ歌手が主役である。
日本人は欧米人よりフィジカルで劣るため、日本人のソプラノ歌手だと金切り声でがっかりすることが多いのだが、欧米のこのクラスだと、そういうハズレ歌手はまず出てこない。
彼女の歌声は、あたたかく耳に心地よい。
世界屈指の歌姫ディアナダムラウもそうだが、日本人歌手とは積載エンジンが違う。
世界屈指の歌姫ディアナダムラウもそうだが、日本人歌手とは積載エンジンが違う。
それは、カローラとベンツのような劇的な違いではないだろうか。
コンサートホールで生の歌声を実際に聞けば説明を要しないので、専門的な議論の余地もないだろう。
コンサートの最後。
アンコールは、ヘンデルのオペラ「Julius Caesar」のアリアであった。
私はヘンデルのオペラを聞いたことがなく、へえ、そうなんだ、と思って聞いたが、Julius Caesarとは、歴史の教科書で習ったユリウスカエサルのことである。
それにしても、クレオパトラの歌うこのアリア、実に深刻な題名である。
「つらい運命に涙はあふれ」。
クレオパトラのような豊かで賢くて美しい完璧な女性も自分の運命がつらかったのだろうか。
まあ、私はお気楽者なので、今のところ自分の運命がつらいとは思わないが、クレオパトラを拘束していた運命というものについて、マキャヴェリはこう言っている。
最後に、マキャヴェリの言葉を書いて終わろう。
人間は、運命に乗ることはできても逆らうことはできないというこのことは、歴史全体を眺めても、真理であると断言できる。人間は、運命という糸を織りなしていくことはできても、その糸を引きちぎることはできないのである。ならば、絶望するしかすべはないかとなると、そうでもないのだ。運命がなにを考えているかは誰にもわからないのだし、どういうときに顔を出すかもわからないのだから、運命が微笑むのは、誰にだって期待できることだからである。それゆえに、いかに逆境におちいろうとも、希望は捨ててはならないのである。(政略論・塩野七生マキャヴェリ語録)