取手市の駅ビル「アトレ取手」の4階に、去年末、「たいけん美じゅつ場VIVA」というアートスペースがオープンした。
JR東日本(アトレ)、取手市役所、東京芸大がコラボして作られたものだ。
JR東日本(アトレ)、取手市役所、東京芸大がコラボして作られたものだ。
市民向けのギャラリースペース、芸大生の卒業作品の入っているオープンアーカイヴ、市民の憩いの場としてのフリースペース、その他にも工作室、大人の休日倶楽部などがあり、何億もの改装費をかけただけあって設備は充実している。
ただ、多くの利用者がアートスペースだとは意識しておらず、フリースペースが学生たちの自習室と化しているのが実情のようである。
かなりの金額で改装したから予算がすっからかんで、タダ働きの人員が必要、そこで上野の東京都美術館のアートコミュニケーターの制度をまねて、年明けから無償のアート活動家を募集し始めた、、、ということでもないと思うのだが、初めての試みなので、私を含め多くの市民が物珍しさでアートコミュニケーターに応募したようだ。
しかし、こないだのガイダンスは正直、ありきたりの内容だった。
数年たったら応募者が数人になってもおかしくない。
なお、アートコミュニケーター第1期生の話は、以前の記事に書いたのでそちらを読んでほしい。
そういうわけで、私はアートコミュニケーターに応募し、書類選考、面接に通り、ガイダンスを受け、現在はここで「基礎講座」なるものを受けている。
以前の記事も読んでもらえれば、この話はようするに、最近よくある「アートで街おこし」を狙っているのだと分かるだろう。
しかし、そもそも「アートで街おこし」なんてできるのだろうか??
それはさておき、アートコミュニケーターの「基礎講座」の話。
カルチャーセンターのような軽いノリの講座ではなく、毎回3時間にも及ぶ、くそまじめな講座で驚いたが、これがなかなかいい勉強になった。
前回は社会活動家のアサダワタル氏の講演で、アサダさんは都内の福祉施設でアートディレクターをしており、アートと福祉の問題について話した。
そして今回の基礎講座は伊藤先生が講師で、対話型鑑賞についてである。
実は、私は対話型鑑賞のファシリテーターをしてみたいと思い、アートコミュニケーターに応募したいきさつがある。
そのため、今回は2階のキャンドゥでA4のノートを買い、真ん中より少し前の席に座ってくそまじめに聴講した。
でも、そもそも対話型鑑賞とは何なのかしら??
対話型鑑賞とは、欧米ではVTS(Virtual Thinking Strategy)と言われるものである。
伊藤先生の話を聞くと、私の対話型鑑賞に対する理解は少しずれていた。
私なりに要約すると、対話型鑑賞の本質は対話(会話)そのものにあるのではない。
作品を鑑賞し、実質的解釈を試みることにあるのだ。
やはり欧米人は日本人とは違って、論理的であろうとしてて、いたってマジメ(!)にアート鑑賞に取り組む人種なのである。
私はむしろ気軽な対話(会話)がメインだと思っていたがそうではなく、対話は目的ではなく、手段の位置付けということだ。
やはり欧米人は日本人とは違って、論理的であろうとしてて、いたってマジメ(!)にアート鑑賞に取り組む人種なのである。
私はむしろ気軽な対話(会話)がメインだと思っていたがそうではなく、対話は目的ではなく、手段の位置付けということだ。
また、伊藤先生は講座の最後に教育の話にも言及した。
VTSは子供の教育プログラムとしても秀逸である。
人前で話す練習にもなる、アウトプットの練習にもなる、正解のないことを考える訓練にもなる、それは現在の学校教育に欠けていることを補うもので、画期的なのである。
VTSは子供の教育プログラムとしても秀逸である。
人前で話す練習にもなる、アウトプットの練習にもなる、正解のないことを考える訓練にもなる、それは現在の学校教育に欠けていることを補うもので、画期的なのである。
従来型の古い教育を、伊藤先生は面白いたとえで表現した。
その時、教室にいる40人の生徒は単なるノートの印刷機です。
印刷の精度で生徒の成績が決まるのですから、まったくばかげています。
確かに伊藤先生の言う通り、、21世紀の教育は、双方向と生徒どうしの知の共有が必要不可欠である。
では、最後に私も伊藤先生のように挑発的なことを言ってみようかな。
私たちのやろうとしている(公共事業、福祉事業としての)アートは街おこしにはなりませんよ!!ということを。
私たちのやろうとしている(公共事業、福祉事業としての)アートは街おこしにはなりません。
なぜなら、地元にお金がほとんど落ちないから。
しかし他方で、美術館の建設コスト、のみならず、ランニングコストがばかにならない。
しかし他方で、美術館の建設コスト、のみならず、ランニングコストがばかにならない。
賃料、維持管理費、人件費等、市民の税負担で永続的に発生する。
よって、今はよくても将来頭痛のタネになると思われるのである。
なお、そういうことも踏まえてPFIというビジネスモデルが用意されていたりもするが、PFI事業というのも一般論としてはなかなかクセモノで何とも評価が難しい。
実は、これは福祉国家の抱える構造的な問題なのである。
田中角栄等に代表される古い自民党の金権政治の時代とは違い、今は社会的弱者のための福祉事業、文化事業が「公共事業のトレンド」である。
社会的弱者のために必要だと主張すれば、目立った反対もないので、道路や橋を作るよりも話が簡単である。
確かに20世紀の高度成長国家の日本には道路や橋が必要だったが、21世紀の成熟衰退国家の日本には、社会的弱者のための福祉事業、文化事業が必要である。
しかしながら、公共事業としての効果が小さいし、長期的な負債となって経済を停滞させる恐れがあり、この負担分は、あとで増税という形で国民に請求書が来ることになる。
そのため、福祉国家とは増税国家のことで、福祉を続けるなら増税の時代がずっと続くことになるのである。
欧米ではよく、「フリーランチはない」などと言うのだ。
むろん、増税はますます経済を停滞させる。
経済が停滞すれば社会的弱者が再生産される。
なので、福祉事業は国家が財政破綻するまで需要(社会的弱者がそれにあたる)には事欠かず、福祉制度も存続することになる。
その意味で、(公共事業、福祉事業としての)アートは街おこしになるようでならない、ということなのである。
まあ、少なくとも街おこしの決め手とはならないのであるから、あちこちで流行っているからといって、うちの自治体もまねしてみようなどと追随するのはやめた方がいいだろう。