2020/11/01

吉原遊郭街跡散歩

先月のことだが、吉原の見学ツアーに参加した。
夜の風俗体験ツアーではなく、戦前の遊郭街の史跡を歩く昼間の観光ツアーである。
現在の吉原は下町浅草の隠れた観光スポットである。
女性客や外国人観光客も多く、街中にはいまだ風俗店(ソープランド)があるものの、どこにでもある下町の風景の中にさみしく溶け込んでおり、商店、飲食店、スーパー、コンビニ、戸建住宅、分譲マンション、アパートなどが建ち並んでいる。
吉原の中心を通る仲之町通りは付近の小学校の通学路であり、幼い子供たちが登下校する。
もはや風俗はデリバリーヘルスが主流のため、風俗街としての吉原は滅びかけのようにも見える。
ただ、この日は平日の昼間なのでそう見えるのかもしれなかった。

私が吉原の見学ツアーに参加したいきさつを話そう。
吉原(千束)のすぐそばの竜泉地区に、樋口一葉記念館がある。
五千円札の樋口一葉は短命だったが、この辺に住んでいた(歩道沿いに樋口一葉の住居跡の石碑がある)。
一時は小間物屋を営んだが、商売人ではないので失敗した。
吉原の話は一葉の代表作「たけくらべ」にも出てくる。
当時はまだ遊郭が栄えており、一葉記念館にその頃の吉原の地図と、簡単な歴史の案内が展示されている。
私はそれを見た後、実際に吉原の遊郭街跡を歩いてみたくなった。
インターネットで調べたら見学ツアーの案内があり、参加したのである。


土手通りのあしたのジョーの記念像


集合場所は土手通りの見返り柳、ここは落語に出てくる有名な場所である。
主人公が遊女に未練して振り返るのだが、さぞかし立派な柳かと思うと、そもそもどこにあるかが分からない。
あしたのジョーの記念像の少し先だというが、Googleマップの矢印が吉原大門の交差点のガソリンスタンドを指した。
確かにガソリンスタンド前の街路樹は柳のようにも見えるのだが、街路樹の横に見返り柳と書かれた小さな記念碑を見つけた。
なあんだ、ただの記念碑じゃないか。


吉原大門交差点


見返り柳


ここでガイドの男性(付近の書店主)と、若い女性2人組と合流し、自己紹介をしたりして、吉原大門方面へ歩いた。
ガソリンスタンド、喫茶店、交番、分譲マンション、そして吉原大門。
落語に出てくる吉原大門も、今となっては道路の左右の汚らしい2本の木柱だけ、その先に続く商店街の入口の目印にもならない。
なあんだ、今は木柱だけなのか。


吉原大門


そこから住宅街の路地へと入った。
段差があり、吉原の土手の跡だというが、住宅街をぐるっと歩き、大通りの交差点のタバコ屋の前に戻った。
ガイドの男性が、ショーウィンドウを見てくださいと言うので、私たちはガラスを覗き込んだ。


おいらんの高下駄


日差しが反射して見にくかったが、大きな漆黒の高下駄が飾られていた。
吉原の遊女たちは人目を引くため、このような高下駄をはいてカランコロンと外を練り歩いたというのだが、まあ、和製のハイヒールのようなものかしら。
私たちはタバコ屋の引き戸を開けて中に入り、退屈そうなおばあちゃんと少しだけ話をした。
タバコ屋におばあちゃんなんて、何とも懐かしい光景である。


吉原神社


その後、近くの吉原神社でお参りをし、記念写真を撮ったりもした。
若い女性2人組はお賽銭を入れていたが、私は小銭の持ち合わせがなく賽銭箱に何も入れなかった。
少し休んで、そこから少し歩くと台東病院がある。
この病院はかつて吉原病院という性病治療の専門病院だった。
もともと日本社会は人身売買と売春に関して寛容だったが、江戸時代から江戸っ子には性病(梅毒)が蔓延しており、それはかねがね深刻な社会問題ではあった。
が、だからといって江戸幕府が人身売買と売春をきちんと取り締まったわけではなかった。
明治維新後は徴兵制となった。
男子は国家のため戦地で戦うから性病は根絶せねばならない。
明治政府は性病根絶を国策として掲げ、吉原の一角に性病専門の公立病院ができた。
ただ、明治大正時代も公娼制度は存続していたから、多くの一般人や有名人が、梅毒を患ってそれを隠しながら生活していたのはよく知られていることだ。
戦後、米軍の占領下となり、公娼制度は廃止となった。
その後は生活が豊かになり、避妊グッズの普及もあり、性病(梅毒)は激減した。


観音像




マンションみたいな外観の台東病院を眺めていてもしょうがないので、向かいの公園を横切り、横断歩道を渡り、吉原弁財天本宮の敷地内に入った。
高所に観音像が立っている。
1923年の関東大震災で死んだ遊女たちの慰霊のために作られたものだ。
無縁仏が並んでいる(こういうところを「投げ込み寺」という)。
墓碑銘が刻まれている場合、それは売れっ子の遊女の墓だ。
ガイドの男性によると、墓を見れば遊女のランクが分かるという。
遊女のほとんどは借金のかたに売られてきたのであり、故郷も墓もない。
死んだ遊女を手厚く葬ったのは、ほかならぬ雇い主の経営者たちであった。
ガイドの男性は、それを吉原の経営者の美談として紹介し、経営者と遊女が良い関係であったと推察した。

しかし、その解説は何だか違うような気がした。
一義的には、遊郭の経営者には死んだ遊女の埋葬義務があるはずで、死体遺棄の罪を免れるために、当時の吉原の慣習にのっとり、埋葬義務を履行したということなのだと思う。
それに、経営者が死んだ遊女をきちんと埋葬しないようでは、ほかの遊女たちが恐れて逃げ出したりしかねない。
手厚い埋葬は遊郭の秩序維持のためでもあったと思う。
金にまみれた性風俗の世界に美談などあるわけがない。
ヤクザの世界に義理人情はなく、ただ損得のみがある。
とはいえ、赤線廃止後の吉原は衰退の一途で、ここまでひどくさびれてしまうと、美談のひとつやふたつ吉原にもあったことにして、昔を懐かしんだりするのも許されるのかもしれない。
神社の石壁に、吉原を代表する遊郭の屋号がいくつか刻まれている。
ガイドの男性が教えてくれないと見つからないようなところだが、聞いたことのある角海老という屋号があった。

「吉原で有名な遊郭といえば、角海老さんです。」
「あたし、その名前、聞いたことあるわ。」
「そうでしょう。」
「角海老の看板なら、あちこちの歓楽街で見かけます。風俗の帝王かなんかですか。」(と私)
「その角海老さんは違います。吉原の角海老さんが落ちぶれて、看板を買った人がやってる店なんじゃないかな。」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、吉原の角海老さんはどうなっちゃったんですか。」
「はっきりしたことは分かりません。でも一説によると、廃業後はやきそばの店を始めたらしいです。」
「は? なにそれ。テキヤかな??」
「どうなんでしょうね~。」
「それでやきそばの店はどうなったんです?」
「やきそばの商売は大失敗したそうです。」