土曜日、牛久市中央生涯学習センターで2回目の金融経済セミナーを行った。
5月22日(土)が第1回、29日(土)が第2回、隣の千葉県まで緊急事態宣言が出ており、一時はどうなることやらと思ったが。
コロナ禍のため何人かキャンセルがあり、1回目は11名、2回目は9名出席となった。
今回はコロナ禍のため定員が少なすぎた。
が、まあ、無事開催できただけでもよかった。
受講生、関係者には心より感謝を申し上げたい。
特に、最前列で熱心に聞いていたWさん、初日にプロジェクターのトラブルを直してくれた、講義後は熱心に質問をしてくれた、こういう受講生がいると講師は嬉しいものである。
ここからは余談。
直前に教室が変更となり、2階のセミナールームではなく、1階の美術室(工作室)で講義をすることになった。
木造のテーブル、窓際の流し台、深緑色の黒板、旋盤などの工作機械、そこはまるで昭和の小学校の校舎のようだったが、まさかこのような場所で金融経済のセミナーをすることになるとは、あまりにもミスマッチ。
教室に入るとまだ受講生は来ておらず、私は始まる前しばらく窓の外を眺めた。
すぐ向かいのグラウンド(元校庭?)で、子供達が野球の練習をしていた。
換気のため窓が開いており、野球少年のかけ声とカーンという金属バットの音、晩春の虫の鳴き声が聞こえる。
コロナ禍でも日本は平和だなあ、と思った。
その後、職員が入ってきて準備を始め、私は教壇机に戻ったが、きれいな深緑色の黒板は使われている形跡がなかった。
先生に指名され、人前で黒板に字を書いた記憶はあるが、先生として黒板に何かを書いた記憶はもちろんない。
おや、黒板の下の引き出しに短いチョークが何本か入っている。
私は何だか板書をしてみたくなった。
職員にプロジェクターのスクリーンを左側に設置してもらい、試しにチョークを手に持った。
黒板にチョークを当てると、書き出しは例のいやな感触がしたが、書き始めてしまうと学校の教師になったような気分でなかなか爽快だ。
というわけで、22日も29日も、いろいろ板書をしたのだった。
板書の時間はたかだか数分、しかし私はその「間」というのが案外、大事な時間だと気付いた。
先生が板書をしている間、先生はもちろん生徒も休める。
生徒はメモをして頭を整理したり、理解の至らないところを前に戻って見直したりもできる。
ようするに、ゆっくりする時間を作り、調整することって、停滞のように思う人もいるが、実は非常に重要なのである。
講義では生産性の向上についても言及したが、現代社会はこういう大事な「間」のような時間を節約して急ごうとする。
しかし、それにより失われる大事なものもあるのではないか。
講義後、私は友人と一緒にお昼を食べた。
その後、牛久シャトーに寄り道をした。
牛久シャトーのことは以前も書いたように、日本遺産に認定したところで街おこしの起爆剤にはならないのではないか、と思っている。
構内は見るべきものがほとんど何もなく、本当に退屈なところなのである。
やはり、きのうも閑散としていた。
「正直、牛久大仏を日本遺産に認定する方が先だったね。」
「そうそう。牛久大仏の大きさは日本一、世界でも6番目なんですよ。」
「あれ~、ないぞ。」
「何が??」
「講義中の自分の写真がない、、、」
「写真撮影を受講生に頼まなかったの??」
「そうそう、忘れた。」
私は神谷伝兵衛資料館などを回り、30分ほどぶらぶらして帰った。
なお、以前も書いたように、牛久シャトーの見所は神谷伝兵衛資料館のこの岩下志麻の1枚の写真である。
ああ、岩下志麻、見れば見るほど美人だなあ(*'ω'*),,,