2021/10/27

I want to be an investment advisor

つくば国際会議場


2度目のワクチン接種が終わり、緊急事態宣言も解除された。
10月は気軽に外出できるようになり、私は久しぶりに首都圏のいくつかの講演会に行った。
その中で最もよかったのは、渋澤健氏の投資セミナー「渋沢栄一の「論語と算盤」で未来を拓く」である。


つくば国際会議場FPフォーラム2021年10月23日


10月22日、つくば国際会議場で開催されたFP協会のフォーラムの目玉講演である。
配布資料によれば、渋澤健氏の経歴はこうである。

シブサワアンドカンパニー株式会社代表取締役。コモンズ投信株式会社取締役会長。1961年生まれ。69年父の転勤で渡米し、83年テキサス大学化学工学部卒業。財団法人日本国際交流センターを経て、87年UCLA大学MBA経営大学院卒業。JPモルガン、ゴールドマンサックスなど米系投資銀行でマーケット業務に携わり、96年米大手ヘッジファンドに入社、97年から東京駐在員事務所の代表を務める。2001年に独立し、シブサワアンドカンパニー株式会社を創業。07年コモンズ投信株式会社を創業(08年コモンズ投信(株)に改名し、会長に就任)。経済同友会幹事、社会保障委員会およびアフリカ開発支援戦略PT副委員長、UNDP(国開発計画)SDGImpactSteeringGroup委員。東京大総長室アドバイザー、成蹊大学客員教授、等。
(以下、著書等省略)






100人ほどが集まった中程度の広さのホール。
日本銀行の職員に付き添われて登場した渋澤健氏は、一礼して壇上へ上がり、教壇にパソコンを置き、椅子に座ってマイクを持った。
語り口も控えめだが、身なりもまた控えめで、正直、新橋のサラリーマンのおじさん(!!)に見えるのだが、渋澤健氏は投資顧問の大御所、新1万円札の顔となる戦前の大銀行家、渋沢栄一の「孫の孫」なのである。
肝心の講演の内容だが、渋沢栄一の資本主義、岸田新総理の新資本主義、ポストコロナ(アフターコロナ)、日本社会の将来像予測、投資の本質、SDGSの重要性などなど~金銭欲を刺激する低俗な投資セミナーではなく、知的好奇心とユーモアにあふれる高尚な投資セミナーであった。

1時間半の講演は、あっという間に終わった。
講演終了後、私は渋澤健氏ご本人と話す機会があった。
講演前の控室で、大人気の経済コラムニスト大江英樹氏と会ったのだが、渋澤氏は直前に滑り込みセーフで入って来たため、話す機会がなかった。
まあ、この方は政財界の要人(??)みたいなので、私なんかが話しかけない方がよいとは思ったが、せっかくそこにいるので図々しく話しかけてしまった。
そして後日、この話をSさんにしたら、こう言われた。
Sさんとは、例のピュリニーモンラッシェなどをズバリ言い当てるワイン通の女性である。

「帰り道で一緒になったのは、きっと何かのご縁よ。」
「ご縁??」
「そう。つまり、あなたも投資顧問になりなさいという天の啓示かもね。」
「おお、なるほど、、、ええっ、そうなのぉ~!?」
「そうよ。」
「う~む。。。」

私なんかに、そんな大役が務まるとは思えないのだが、、、投資顧問は、命の次に大事なお金を、他人様からお預かりして増やさなくてはいけない仕事である。
お客さんの資金を増やせば「神様」だが、減らせば容赦なく「悪党」扱いされる厳しい仕事である。
とはいうものの、ワインの銘柄をズバズバ言い当てるSさんが天の啓示と言うのだから、きっと、天の啓示なのだろう。
というわけで、投資顧問、機会があればちょっとやってみたいものだ。

帰り道は、つくば駅からつくばエクスプレスで守谷駅へ。
駅のコンコースに、ハンドドリップのカフェがある。
数年前に1度入ったことがあり、覚えていた。
その時は、どこかのバリスタ選手権(?)で優勝したというショートカットの元気な女の子が、おいしいコーヒーをいれてくれたのだが、今日は男女のペアの店員で、男性のバリスタに聞くと、その女の子なら異動したのでもういないと言われた。




(2021年10月当日のコーヒーファクトリー)


(2018年当時のコーヒーファクトリー)


私はカウンター席で、コーヒーを飲みながらメモの整理をした。
そういえば講演の最後の方で、チャンスについて渋澤健氏はこんなことを言っていた。
スライドに、横軸が「できる、できない」、縦軸が「やりたい、やりたくない」のグラフを表示し、その時ばかりはやけに熱っぽく語っていた。

みなさん、やりたいのにできないことってありますよね。でも、チャンスがないからといって諦めたらそれまでなんです。チャンスがなくてもやりたいと思い、動くことが大事。そうすると、ふとしたきっかけで右(「やりたい、できる」のゾーン)に行くことがありますよ。

そして、続いては逆境の話になった。
チャンスの反対は逆境(ピンチ)である。
逆境には、自然的逆境と人為的逆境があって、前者に対して人間は無力なので、諦めが肝心で、忍耐が正しいという。
確かに日本人はやせ我慢が得意である。
が、後者にあっては諦めるべきでも耐え忍ぶべきでもなく、積極的に自ら動きまわり、事態を改善するよう努めるべき、といっていた。
これは、渋沢栄一が子孫に残した言葉なのだそうである。
最初私は、なるほど、そうなんだ、とだけ思った。
が、渋澤健氏が例え話を始めると、にわかに重要なことだと気付いた。
つまりこれは、諦めがよく、我慢強い日本人(私も含めて)に向けられた渋沢栄一からのアドバイスだと思った。
人為的逆境に対しては流されてはいけない、じたばたして抵抗しなくてはいけないということである。

明治42年(1909年)渡米実業団を組織し団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。タフト大統領と会見する他、3ヵ月かけてアメリカ各地を訪ね、貿易摩擦の解消、相互理解の進展に努めた。明治45年(1912年)ニューヨーク日本協会協賛会創立、名誉委員長を引受ける。同年のアメリカ・カリフォルニア州における外人土地所有禁止法に見られる日本移民排斥運動などに対し、アメリカ人の対日理解促進のためアメリカ報道機関へ日本のニュースを伝える通信社の設立を提案した。日本を植民地とするロイターの障壁の前に実現は見なかったが、設立した国際通信社は現在の時事通信社、共同通信社の起源となった。
大正2年(1913年)来日した中華民国国民党党首孫文を民間を代表して出迎える。大正3年(1914年)日中経済界の提携のため中国を訪問。
大正4年(1915年)パナマ太平洋博覧会のため渡米し、各地を歴訪。ウィルソン大統領と会見。大正5年(1916年)日米関係委員会発足、常務委員就任。大正6年(1917年)日米協会創立、名誉副会長就任。大正9年(1920年)国際連盟協会創立、会長就任。大正10年(1921年)ワシントン軍縮会議出席のため訪米、ハーディング大統領と会見。
大正13年(1924年)ポール・クローデル駐日大使と協力して日仏交流の拠点として日仏会館を発足させ、理事長となる。大正15年(1926年)日本太平洋問題調査会創立、評議員会会長。昭和2年(1927年)日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換し、親善交流を深めることに尽力している。昭和6年(1931年)には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金募集に尽力。
渋沢は大正15年(1926年)と昭和2年(1927年)のノーベル平和賞の候補にもなっている。
(Wikipediaより)

おや、この「青い目の人形」、どこかで見たことがあるぞ。
写真フォルダを探すと土浦の歴史博物館(??)で撮影した写真がそれだった。
展示の人形のキャプションを見ると、土浦市立土浦幼稚園の所蔵品と書いてある。
渋沢栄一は1931年に死んだが、隠居後は悪化する一途の対米関係改善のため、民間人として融和外交に奔走した。
恐らく、渋沢栄一の人為的逆境の話はここから得られた教訓ではないか。




例えば恋人や親友、私たちの人間関係が悪化してしまったときの対処法を考えてみよう。
あるいは、もっと分かりやすいのは、大好きな女の子にふられた場合だろう。
多くの人は、相手に話しかけるともっと関係が悪化する、と思うだろう。
そのリスクを恐れ、なるべく話しかけないで様子を見ようとしがちだ。
しかし、積極的に相手と関わる方がよい結果が得られる、相手を避けるのではなく、対話が最も重要だと渋沢栄一は言っているのである。

なるほど、そう言われるとそうだ。
外交には同盟国との対話のみならず、敵国との対話ももちろん含まれるのだし、じたばたして抵抗すれば自国の運命が変わることだってある、と強く信じて交渉するのが、外交当事者の重要な気構えである。
諦めが肝心などと言って諦めてしまっては、良い未来など訪れるわけがないのだね。
まあ、そんな感じでこの日の渋澤健氏の投資セミナーは、私に対して資産運用の重要性のほかに、対話の重要性も教えてくれたのだった。