8月1日。
家を出るとき雲行きは怪しくなかったが、ママ殿は私に、折り畳み傘を持っていくようにいった。
確かに途中の浅草で雲行きが怪しくなり、銀座線の京橋駅を出ると、外は激しい雷雨だった。
私は折り畳み傘を開き、道路に出た。
が、すぐびしょ濡れになってしまい、京橋駅の目と鼻の先にあるギャラリー椿に避難した。
私は中村萌さんの作品のファンなのだが、ギャラリー椿は彼女の作品を扱う画廊である。
裏口から入ると客は誰もおらず、左の小部屋には、雨あがりの虹をイメージさせるような素敵な作品が展示されていた。
これに対し、メインの展示スペースにはカラフルで楽しい作品が展示されており、対照的であった。
雷雨がさらに強まってきたので、しばらく雨宿りをさせてもらうことに、、、その間、私は女性スタッフのHさんと話す機会があった。
彼女は新人で、展示作品のガイドをしてくれたが、ちょっとした世間話もしてなかなか楽しかった。
帰りがけ、名刺交換をしたとき、私は中村萌さんのことを彼女に聞いた。
「ちょっと聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「私は中村萌さんの作品が大好きなんですけど、しばらく見ていないです。彼女の展示会がないんですけど、最近はどうされてます?」
「中村さんなら今週末から、銀座シックスの蔦屋書店で個展をやりますよ」
「おお、すごい、さすがですね。ギンザシックスに展示なんて一流のアーティストでなければできませんよ。でもギンザシックスに蔦屋書店なんてあったかな、、、行ったことないですけどね」
「見に行かれますか?」
「そうですね。行けたら、、、ですけど」
「あとでご案内のメールを送ります」
8月5日。
ママ殿と一緒に、久しぶりに地元のフレンチレストラン「キュイジーヌアイ」へ。
コロナ前、私はここの常連で、カウンター席で話しながら食べたものだが、コロナになってからそういうことができなくなり、すっかり足が遠のいた。
一度離れると、やあ、久しぶり!!とはいかず、気軽には行きにくくなるもの。
そのまま来なくなった常連客も多いようだが、私もそのひとりにカウントされていただろう。
1年以上食べにきていないので、オーナー夫婦に対して何となく気まずい。
私は厨房のオーナーに背中を向けてテーブル席に座り、ママ殿と話しながら食べた。
ただ、この気まずさは一瞬のもので、どうってことのないのだ。
私は彼との心地よい距離感を意図的に作り、静かに、おいしい料理を食べた。
そして、再会してよかった、ということはいえる。
再会すれば、また何か良いことが始まるものだ。
ランチ後は、ママ殿と別れて日本橋へ。
コレド日本橋~日本橋高島屋~ギンザシックス~上野広小路と回った。
主な目的はもちろん、蔦屋書店で中村萌さんの作品を見ることだった。
しかし、エスカレーターで上までいくと、書店内は非常に混雑していた。
私は人込みを嫌い、店内に入らず、右手のスタバの方へ歩いた。
スタバ側の壁には、別の画家の作品が展示されており、私は不思議な気持ちでそれを眺めた。
しかしその時、仕事の連絡が入って、私はすぐに、下りのエスカレーターに飛びのった。
これから作品を見ようというときに、ツイてないな。
残念だが、こういうこともある。
やけに混雑していたが、土曜日で、いまは夏休みだからかな(*'ω'*)
あるいは、展示会初日だから??
いや、待てよ。
初日は8月5日ではなく、8月4日だった。
間違えた・・・私は8月5日を初日と勘違いして見に来ていた。
もし8月4日(初日)に見に来ていたら中村萌さんご本人とも対面がかなったかもしれない。。。
他方、これは自分でも説明困難な事態である。
これはきっと、邂逅といわれるものでは??
気まずさの後の満足感、突然詰め寄られた距離感といった問題、、、私は頭の中を整理したくなった。
私はギンザシックスを出て交差点の三越に入った。
三越の店内は非常に混雑しており、私は人込みを縫うようにして地下鉄の駅構内へ。
銀座駅から上野広小路駅へ。
そこから歩いて10分ほどのところの「リンネバー」に向かった。
3月にここを訪問したとき、私は小島社長と話して頭の中がクリアになったことを思い出したからだ。
しかし、その途中、「229」というモダンなギャラリー&カフェに入店し、ここで私の頭の中は意外な形で整理された。
情熱的なローズヒップティーを飲みながら、カウンター席でしばらく過ごした。
229ギャラリーではちょうど、ise uyu氏の写真展「距離の形象をたどる」が開催されていた。
距離(距離感)というのは、私にとって非常に興味深いキーワードである。
「私は、日常生活で人と接していく中で、距離感や関係性に対して、 コンプレックスや疑問を抱いていました。距離感や関係性に対して疑問を抱く中で、そもそも距離がどのようなもので、どのような形なのかが気になりました。写真作品を通して、距離を形象化し、距離について考えたいと思います」(パンフレットより)
以下は、私の手帳のメモ欄より。
人と人の距離について考える写真展。
距離感が近いとはどういうニュアンスか。
服の中を、のぞかれているかんじ。
撮影者の男性がのぞき役で、被写体の女性が被害者。
彼女は気恥ずかしいが、彼はイイ気分だろう。
そうでなければ写真家の彼は10枚以上、同じパターンで別々の女性を撮影しないだろう。
最初のうち距離は遠かったから心地よかった関係が、ある時から距離が詰められてきて、まず戸惑いを感じる。
距離を詰める方が攻め役。
距離をとる方が逃げる役。
冷静になりたい、いったんは距離を取るため、自分が退く。
これは本能的、反射的な行為である。
しかし、崖っぷちまで退くと、今度は相手を攻撃して退けなくてはならない。
どうやって?
さて、この距離という言葉に込められたニュアンスは、男女の場合、恋愛感情である。
距離感が近いというのは、例えば家族のような親近感があって、ウザったいのだが、くすぐったいような快感もある。
それが、服の中をのぞかれているということであり、相手はすでに、彼女が固く閉ざしている部屋の鍵を開けてしまったようなものだ。
そこに入られたということだから、穏やかな気分ではいられず、本能的に引っぱたきたい気分になっている。
よって、退ける方法は、ビンタ。
でも、この男、どうやって引っぱたいてやろうかしら!!
彼女たちの表情は、そのように見えるのだが。
229ギャラリーを出た後は、予定通り、リンネバーへ。
まず、富田菜摘さんのブリキ作品との再会(*'ω'*)cool
到着は5時過ぎで、この日は盆踊り大会が近くの公園であるというので、小島社長も女性スタッフも途中から浴衣姿になった。
私はコーヒーを飲みながら、裏の作業室で小島社長と話した。
流し台に絵筆があって、「そういえば、アーティストから絵を習ってみたい。でも自分は不器用だ」と私が彼女にいうと、ワークショップを受けてみれば、といわれた。
私はテーブル席に移動し、いくつかのワークショップの中から、一番簡単そうで人気の「ポストカードのキリバリ」を選んだ。
私のそばに、ポスターや包装紙やシールなどが積まれた紙くずのヤマが用意された。
ここから好きなものをとって、はさみとノリでポストカードにキリバリするというもの。
スタッフの女性が、私の目の前に、小島社長の作ったサンプルを置いた。
彼女は美大出身だから、とても上手だ!!
無計画人間の私は、それを見て、テキトーにキリバリするわけにはいかなくなった。
シロウトの意地を見せなくては!!
だが、素材に使えるのは偶然のモノしかないわけで、どうしようか、、、
結局、私は、1時間以上かけて悩みながら作った。
アートというのは実に面白い。
示唆に富んでおり、私にとって運命的なものである。
タロットカードのような予言的な意味もあるのだろうか。
めぐり合うアートはその時々の私自身である。
また、生み出されるアートもその時々の私自身である。
そのことにまず、感謝をしなくてはいけない。
2018/11/01「Let's Have Tea Together」より。
「書くということは、いいことである。自分の中にある思いが、書くことによって、1つの確かな形をあらわすからだ。わたしはその形を、第三者のような目(とまでは言えないにしても)で、かなり冷静に自分の姿を見つめることができる。生きるとは先ず、自分自身の姿をみつめることから始まると、わたしは考えている。自分がいかなる者かをわからぬままで、自分の生きる道を探しあてることは不可能のような気がする。」
(三浦綾子「生きること思うこと」)
要するに、書くと自分自身の内面が出る、自分のいきたい方向や望み、あるいは深層心理に隠れていることなど、書くと自分の本性が見えてしまうのである。
同じように、絵は画家の内面を映し出す鏡ではないだろうか。
「「描く」ということは、いいことである。自分の中にある思いが、「描く」ことによって、1つの確かな形をあらわすからだ。わたしはその形を、第三者のような目(とまでは言えないにしても)で、かなり冷静に自分の姿を見つめることができる。「生きる」とは先ず、自分自身の姿をみつめることから始まると、わたしは考えている。自分がいかなる者かをわからぬままで、自分の「生きる道」を探しあてることは不可能のような気がする。」