2023/12/08

私のマドモアゼルルウルウを求めて

初詣の湯島天神は混んでいるが、年末は空いている。
初詣は自分勝手な願い事をするものだが、年末なら1年の無事を神様に感謝するだろう。
そんなお参りの仕方もあっていいと思う。
これを私は勝手に「終わり詣」などと名付け、手帳の12月の予定に書き込んでいる。
師走にホッとする時間が得られるので、わりとおすすめである。
(2019/12/26「湯島天神、恒例の終わり詣(2019年)」より)






12月6日は今年も湯島天神で恒例の終わり詣をしてきた。
御朱印帳を持参し、御朱印も書いてもらった。

受験生たちの絵馬を吊るすところの隣に、おみくじコーナーがある。
私はここで、普通のおみくじではなく、恋みくじの方を引いた。
境内のベンチに座り、恋みくじをあけようとすると、強い風が吹き、恋みくじが飛んでいきそうになった。
私はあわてて、恋みくじを手帳で固定し、もう一度あけようとしたのだが、寒さで指先が乾いていて、恋みくじの糊をうまく剥がせなかった。
仕方がなく、あとで開けることにして、恋みくじを財布のポケットにしまった。




こないだ記事に書いたように、今年は早めに自室や書斎の整理整頓をしている。
書斎の片隅には、本を書くときに集めた参考文献等の資料の束があるのだが、その束を1つ1つ片付けていくと、編集者との打ち合わせのノートが出てきた。
私は、コーヒーを飲みながら、そのノートを読んだ。
長い時間と回数を重ねて、実にいろいろなことを話し合ったものだ。
そういえば、ノートには書いていないが、編集者から、こんなことを言われたのだ。

「先生のブログのエッセイは、とてもおもしろいですよ」
「は、冗談でしょ?」
「私は休憩時間に読むことがあります」
「ええっと、、、あなた、まさか、私のエッセイの読者なの?」
「いえ、たまに読むだけなので、読者というほどではないですが」
「それでも立派な読者でしょ~が!」(笑)
「そうですかね。あのエッセイは、内容的には、とてもおもしろいと思います。それに、文章の書き方は、どこにも問題がありません。私は先生の法律の原稿に対しては、かなり厳しい注文を付けてますが、エッセイは、あの書き方でいいんです。プロ並み、といってもいいんじゃないかな」
「プロの編集者にお褒めいただけるとは光栄です。どうも、ありがとうございます。ただ、趣味で書いている雑記ですよ」(笑)
「ええと、これは例えばの話ですが、もしエッセイが注目されたら、エッセイで紹介されているアーティストや作品が一緒に注目されることもあるかもしれません」
「ああ、なるほど。でも、かりにそうなったとしても、実際にその人の絵が売れるのかな」
「どうなんでしょうね、、、絵はそんなに売れるものじゃないですし、そもそも編集者の私の言うことなんて、アテになりません」
「案外うまくいったりして」(*'ω'*)

ただ、これは、ビジネス書ではなく、エッセイや小説の世界の話である。
エッセイストや作家は、アーティストと同じようにクリエイターであり、趣味にとどめるならいいが、仕事にするとなると非常に厳しいのではないか。




さて。
エッセイストというと、私的には、森茉莉である。
森茉莉というと、7月14日から10月1日まで、千駄木の森鴎外記念館で森茉莉の展示会があった。
私は一度、7月中に見にいっていて、その後、9月2日の朗読会に参加する予定でいたのだが参加できなかった。
そのため、森茉莉の展示会のことを書くタイミングを逸していたのだ。
年末に、忘れないうちに、書いておこうと思う。

以下、私の手帳のメモ欄より抜粋した展示会の雑感。

森茉莉。
54才で「父の帽子」で日本エッセイスト賞受賞。
彼女は親に甘やかされ、かわいがられ、何不自由なく育ち、好きなことをして自由きままに生き、自分のために生きた。

彼女は美意識(エレガンス)を重んじるエッセイストである。
ただ、彼女の年譜を見ると、鴎外の作り上げた偉大な世界が、彼女に何らかの悪い影響を与えたようにも見えてしまう。
つまり、うちの子はこうでなくてはいけない、という家の呪縛や親の呪縛のようなものである。

2度の結婚に失敗。
相手は文学者、医者である。
2度目の結婚は、1年未満で離婚となった。
以後、弟と暮らす~弟の結婚後は独り暮らし。

キャプションには、森茉莉は書くことにより幸福(自己肯定と自己発見)を得た、と書いてある。
私は、彼女は書いて自分自身を見つめ、気楽になれたのだと思う。




なぜ彼女は再婚しなかったのか。
これについては、私が2020/04/26「マドモアゼルルウルウ」の記事に書いたことが、ひとつの答えになっているような気がする。

次に、「マドモアゼルルウルウ」。
こちらは、ジイップというフランスの女性作家の戯曲を、森茉莉が和訳したもの。
14才の生意気なお嬢様ルウルウが、ひたすら男の悪口をいう。
同年代の美少年も、20~30代の若い男もルウルウの好みではない。
ルウルウの好みは40代以上で、実は、パパの友達で家によく遊びに来るモントルイユという50才ほどの紳士(インテリで遊び人のおっさん!!)が好みなのである。

「~また、非常に頭のいいために男というものに不満で、くだらない男より動物のほうがいいというので動物に夢中だったといいます。彼女は少女のときに、モンテスキュウに可愛がられたそうです。上流の家に生れて、馬鹿げた因襲、虚飾に反抗して、男の悪口をいい、動物に夢中になっているルウルウはジイップそれ自身のようです~」(森茉莉の序文)

本のセリフにあるように、ルウルウの理想の恋愛は、ドラマのような洒落たもの、気取ったものではなく、ただただ子供っぽいものである。
つまり、森茉莉も、ルウルウも、ジイップも非常に頭のいい女性だが、そのような女性は得てして、かなり年上の男性が好みで、その男性から子供のようにかわいがられたい、その男性に子供のように甘えたい、と思っているということである。




以下、2018/11/01「第1部・Let's Have Tea Together」より。

「書くということは、いいことである。自分の中にある思いが、書くことによって、1つの確かな形をあらわすからだ。わたしはその形を、第三者のような目(とまでは言えないにしても)で、かなり冷静に自分の姿を見つめることができる。生きるとは先ず、自分自身の姿をみつめることから始まると、わたしは考えている。自分がいかなる者かをわからぬままで、自分の生きる道を探しあてることは不可能のような気がする。」
(三浦綾子「生きること思うこと」)

もともと私にとって書くことは、読者への自己表現ではなく、自己発見のための手段であった。

人生は、好きなものを追いかけて生きるほうがいいわ。それはしばしば困難な道で、選びにくいのよ。他方、好きではないが楽な道もあると思いますが、そちらを選ぶと年をとったとき、後悔するんじゃないかしら。

これは、ワインのT先生からの素敵なアドバイスである。
T先生のこのアドバイス、意外にも、2018/12/10「好きな人の役に立てる時代」で、すでに私自身が考えていたことと、ほぼ同じだった。
エッセイも、愛がなくては書き続けられないということだと思う。
やはり、人生の選択においては、好きか嫌いかが、非常に重要な判断基準となるのだ。
なぜなら、嫌いな人と一緒にいたり、嫌いなことをしていると、うまくいっているときはいいが、厳しい状況で耐えられないからだ。
ということで、好きな人のために好きな仕事をする、というのが単純に正解である。
私は、そ・こ・に、トコトン、こだわる!のがイイ、と思っている。
まあ、実際は、どうなのだろうか、と思うこともあるのだが、ただ私はやはり、人生をどう生きるか考えるとき、後悔なく生きたいと思うのだ、、、

では、いよいよ「私の」マドモアゼルルウルウはどこにいるのか、ということだが、、、それは、アーティストなのだ。

私のマドモアゼルルウルウ!を求めて。。。

私は、アートあるいはアーティストもまた、タロットカードのように示唆に富んでおり、私にとって運命的なものだと思っている。

めぐり合うアートはいつでも、その時々の私自身の鏡だった。

私は理想的なアートとはどのようなものかについて考えたことがあるが、その時々の市場価格、人気、評価等に関係なく、自分にとって重要な意味があるかどうか、あるいは、あったかどうかで主観的に決めるのがいいと思っている。

また、非常に主観的なことをいうようだが、そのようなアートを生み出したアーティストは私にとって何よりも、永遠に大事な人なのである。

では、私の目に映る理想のアートとアーティストとは??

オトナになっても子供のようにワガママで、子供のようにはしゃいだりスキップしたりすることもある、子供のように怒って私を攻撃することもあれば、泣いて部屋に閉じこもってしまうこともある、恥ずかしがり屋なのか、ずうずうしい人間なのか、一体何を考えているのか分からない、それが私の目に映る理想のアーティスト、それはアートそのもの、それが私のマドモアゼルルウルウ!である。

2023/12/05

サロメ、あるいは、なぞうさ?

2023年12月から、今シーズンのMETライブビューイングオペラがスタートした。
しかし、上映スケジュールを見ると、2024年3月まで、私の見たいオペラがなかった。

今回は、久しぶりにオペラのことを書こうと思う。

そういえば9月、私は銀座の東劇で、METライブビューイングオペラを2本見ていた。
1本は、こないだブログに書いたプッチーニの「トゥーランドット」である。
もう1本は、これから取り上げるリヒャルトシュトラウスの「サロメ」である。
これは、オスカーワイルドの戯曲をもとにしたものだが、原作とはチョット違うようだ。

上映が始まると最初、「愛の謎は、死の謎よりも深い」という意味深な言葉が、ナビゲーターの女性から提示された。




確かに彼女の言うとおりである。
第一に、「サロメ」は”愛と死の物語”である。
しかし第二に、この物語は、”サロメの満足の物語”でもある、と私は思う。
彼女は潜在的に愛する者との死を望んで生きているが、ちょうどいい相手の男(預言者ヨカナーン)を見つけたのだ。

第三に、「サロメ」の物語は、”オトナが子供に害悪を与える話”だと思う。
美貌を極めたサロメはその肉体をさらし、黙って踊るだけでいい。
王を虜にし、欲しいものを与えるといわせてしまう。
しかし、預言者ヨカナーン、あるいは他の宗教家たち(劇中で何人も登場する)、彼らはサロメとは対照的存在である。
彼らはオトナであり、魅力がない老人たちであるが、それゆえに、もっともなことや正しいことを喋る必要がある、正義面をする必要がある。
そして、ほどよくバランスを取っているかに見える人物が王である。
これはこれで、その言動と享楽主義を見ていると、どこかバカげている。
いずれも極端なキャラクターで違和感がある。

「サロメ」では、王が最も優れたバランス感覚と秩序の精神と人間的魅力を発揮している。
いつの時代も民衆は愚かで、ほどほどの人物が王になる、ということではないだろうか。
ドラマの最後で、王は娘のサロメを殺すように命じ、舞台から立ち去る。
これは王の政治的決断である。
第四に「サロメ」の物語は、”政治家が決断をして愚かな民衆の騒動をおさめる話”だと思う。

「サロメ」は2時間ほどの短編オペラで、1幕だけで終わった。






後日、タルトタタンを初めて食べた。
ずいぶん赤いので、あんずジャムでできているのか、と思い、支払の時、店員に聞くと、やはり、リンゴジャムだった。

私は、手帳のメモ欄を開き、このようなことを書き込んだ。

もしサロメのように異常に美しく、異常に淫乱で、異常に女王様ぶっていて、異常に子供っぽい女性がいるとしたら・・・それは扱いにくくてもイイ女だ。
私は彼女のことを愛してしまうかもしれない。
その場合、彼女の秘密や過去が気になっても詮索するべきではない。
理解者とは、彼女の内面や過去を何でもよく知っている人、ではない。
むしろ彼女に関する本当のことは、ぜんぜん知らなくたっていいが、彼女のことは何でも受け入れる精神を持つ、ということだ。

続いて、「サロメ」のあらすじについてコメント。

リヒャルトシュトラウスの「サロメ」とは違い、ヨカナーンを助けようとする筋の、他のサロメもある。
むしろこちらが彼女の心情に照らしてオーソドックス。
いずれにせよ、本当は、殺すつもりはない。
彼女は権力者により自由と権利を制限されていて、イライラしている。
彼女の殺意の対象は、むしろ権力者の王の方に向けられているが、実現できないだけではないか。
王(父親)はサロメを愛しており、また、ヨカナーンを幽閉している。
2人とも王の権力下で身動きがとれない。

もっとも、いまは自由と人権の時代である。
移動も簡単にできるし、住まいも余っているし、至急で何でも手に入る。
現代版の「サロメ」なら、意中の男性を殺すこともなければ、助ける必要もないだろう。
例えばの話、メールや電話で呼び出して、どこかで逢引きをして、駆け落ちも容易にできるのだから。
もし私が現代版の「サロメ」のシナリオを書くとするなら、オチは駆け落ちでハッピーエンドかなんかでいいと思う。

さらに、タルトタタンのジャムについてコメント。

私はタルトタタンを食べながら、あんずジャムではなく、ローズジャムかもしれないとも思った。
ローズジャム、、、それはレアなジャムである。
去年3月、銀座のローズギャラリーという花屋で、花を贈るついでにローズジャムも買ったのだが、最初は自分で食べようとして買った。
しかし、花屋を出た後、近くの喫茶店に入り、そこでサラダを食べているうち、考えが変わった。








喫茶店を出ると、私は花屋まで戻り、店員に、やっぱりこのローズジャムは花と一緒に贈ってほしい、と頼んだのだった。
当日配達で、時間もなかったため、私は花屋の店員に足代を払い、女性店員が直接、手渡しで届けてくれることになった。
後日、受け取った相手の反応をメールで教えてもらった。
ご指名どおり、本人に直接渡したが、とても喜んでいた、花屋としてのプライドに賭けてそれは本当である、との返事であった。

帰宅後、私は書棚から去年の手帳を取り出して見た。
去年3月、私は喫茶店で手帳のメモ欄に、このようなことを書き込んでいた。

家に帰ると、私はサロメにローズジャムをプレゼントする。
サロメはご機嫌になり、朝食の食パンに付けるとおいしそうだと言って、冷蔵庫にしまう。
しかし、サロメは食いしん坊で、夜中に寝ぼけて、冷蔵庫をあけて、つまみ食いをする習慣がある。
早速その日の夜中、サロメはローズジャムをすべて、なめてしまう。
翌朝起きると、食パンに付けるローズジャムがなくなっている。
自分で食べておきながら、サロメはそのことにひどく腹を立て、私に対し、ローズジャムのおかわりを断固要求してくる。
彼女のワガママに手を焼いた私は、直ちに着替え、朝食抜きで、急いで家を出る。
銀座のローズギャラリーの開店と同時に、ローズジャムを買い占める。
そのことを報告するとサロメは機嫌を直し、私は事なきを得る。

私は、スマホを指でなぞり、Googleフォトのアーカイブをたどった。
ちなみにこれは去年9月に見たアート作品だが、柏市役所の隣のラコルタ柏の雑貨屋の展示スペースで見たものである。
「なぞうさ」というようだが、なかなかユニークなキャラクターである。

う~ん・・・「なぞうさ」ねえ、、、(*'ω'*)